株式会社オーダースーツSADA
代表取締役社長 佐田 展隆 様 インタビュー
代表取締役社長 佐田 展隆 様 インタビュー

生駒:皆さんこんにちは!私がこれまでやってきました、リレー形式で経営者の皆様にインタビューをするという企画「ターニングポイント 社長の流儀」復活の狼煙を上げる日がいよいよやって来ました。その第1回として、ぜひお話を伺いたいということで、「株式会社オーダースーツSADA」の、佐田展隆社長に今日はお話を伺うことになりました。今日はよろしくお願いいいたします!今日もスリーピースでビシッと決めていらっしゃる佐田社長ですが、まずは簡単な自己紹介をお願いできますでしょうか?
佐田:よろしくお願いいたします。弊社はフルオーダースーツを製造する工場を、国内では宮城県の大崎市と、それからメイン工場は中国の河北省に、それぞれ100%子会社として持っておりまして、この2工場で作ったフルオーダースーツを自社で、直営で展開している国内の46店舗で販売をしています。工場直販で価格競争力を持てるという強みを活かし、フルオーダースーツの価格破壊を起こしていこうという志で、「お試し19,800円から本格フルオーダースーツをお仕立てすることができます」と打ち出して、フルオーダースーツチェーンを展開しています。
ちなみに、フルオーダースーツというと、「レディースも作れるんですか?」」とよく訊かれるのですが、大体この業界はレディースは高く値決めするんですね。でも当社はメンズもレディースも同じ値段でやっています。例えば澤穂希さんの引退会見のときのスーツがうちのスーツなんですよ。そんな形でフルオーダースーツの良さを世に広めることを頑張ってやっている会社です。私が4代目社長として今この会社を引っ張らせていただいております。
生駒:佐田社長は大学卒業後、大手の「東レ株式会社」に入社されましたよね。その後お父様から佐田社へ呼び戻されたとのことですが、まずは、その辺の経緯をお話しいただけますでしょうか?
佐田:そうですね、「東レ」でまもなく5年間となるところで、父から「会社が大変だから、手伝ってくれ」と声をかけられまして。私は男3人兄弟の長男で4代目ですから、父に言われたら、会社を手伝うものだと思っていました。当時は工場、フルオーダースーツのつまりメーカーをやっていましたので、なるべくなら同じ繊維関係の会社で働いた方がいいだろうということで、私も「東レ」に行っていたんですよ。それで、いよいよ声をかけられたかと思ったのですけど、本当はもっと先だと思っていたんですね。当時私は29歳だったので、ちょっと早いなと思いましたね。あれは2003年の年末でした。
生駒:その時の会社の状況はどうでしたか?
佐田:当時の状況をいうと、うちの会社は百貨店「株式会社そごう」の下請け工場だったんですよ。「そごう」のフルオーダースーツはほぼうちで縫っていましたので、売り上げの半分以上が「そごう」だったのです。ところが、ご存知かと思いますが、2000年にその「そごう」が経営破綻しているんですよ。私はそのニュースを「東レ」にいたときに聞いたのですが、聞いた瞬間、父の会社は終わったって思いました。だって、売り上げの半分が飛ぶわけですから倒産するのが普通じゃないですか。
それで、帰るところがなくなったと思ったので、私はもう「東レ」で一生懸命やっていこうと腹を決めたんですね。にしてもそこから3年間経っても父の会社が倒産するって話が入ってこなくて。そんなことを考えていた矢先に父から連絡があって帰ってこいと。大変だから手伝ってくれと言われたので、「わかった、お父さん手伝うよ。大学までしっかり出させてもらって感謝もしているしさ」って二つ返事で承諾しましたね。
生駒:その時お父様からお声掛けいただけたことはすごく喜びに感じたと。
佐田:そうですね、やっぱり小さい時から父も祖父も経営者として人前に立って、朝礼で挨拶をしたり、パーティーとかでもマイクを持ってスピーチしたりと、話をするのが上手くて。そういう姿を子供ながらに見ていると、やっぱり憧れるじゃないですか。そんな父に頼りにされる人間になりたいと思ってずっと生きてきたので、手伝ってくれと言われたときは、もう本当に喜び勇んでというか、頑張って父の力になるんだと、相当の気合いを持ってこの会社に戻ってきましたね。
生駒:「東レ」側としても、多分将来の幹部候補となるであろう佐田社長を手放すのは惜しかったのではないかと思いますが、そこはいかがでしたか?
佐田:部長からは「ふざけるな!5年経ってやっとメイン戦力になったところで辞めるってどういうことだ!」と言われたんですけど、課長と教育係だった方は理解してくださいましたね。課長は紡績工場や織物工場、染工場のこととかをよく知っていたんですよ。「そういう会社は息子を戻したことで成長したみたいなケースも結構あるし、お父様もあなたの力を借りて会社を変えようとしているんだから。大変だって言うのならすぐ帰りなさい」と課長はものすごく理解を示してくれました。教育係の先輩も、今では経営者やっているような優秀な方だったので、「どうせ俺から引き継いだお客さんたちだし、皆さん事情わかっているから、引き継ぎなんかしなくていいからすぐ帰りなさい」と言って、承諾してもらいましたね。
生駒:それで、会社に戻られたときの状況が散々たるものだったと?
佐田:はい、もう本当にひどかったですね。売り上げの半分を占めていた「そごう」が破綻していますので。それでも会社が生き残っていたのは素晴らしいことだとは思うんですけど。当時、売上22億に対し、有利子負債が25億あって。今みたいに金利は安くないので平均してみると大体金利4.2%ですから、金利だけで年間1億以上払っているわけですよ。それで、3期連続8,000万の営業赤字で、しかもよく見ると3期連続キャッシュゼロなんです。
おかしいじゃないですか。私には資金繰りがちゃんとできているのかすら分からなくて、父に聞いてみるんですけど、ちゃんと教えてくれないんですよ。「お前に言ってもわからないだろ」みたいに言われて。私は戻ってきてすぐ25億の借金の連帯保証人になりましたから、もう逃げられないじゃないですか。こっちは人生かけて戻ってきたのにって考えたら腹が立ってきまして、父に「バブルに踊ったくそ経営者が!」ぐらいのことを言いましたよ。私もこういう性格なので言いたい放題言っちゃうんですよ。
生駒:それだけひどい経営状況の上、お父様との確執もあったのですね。でもそこから会社を立て直そうとご尽力されていかれるわけですが、どのように進めていったのでしょうか?
佐田:そうですね、あの時父を責め続けていたら、父の駄目なところばかり見ていたら、多分会社も私の人生も駄目になっていたと思います。2代目である祖父は戦争から帰って来て、東京大空襲後の焼け野原の中にあったこの会社を立て直したんですよ。そんな祖父とあの世で再会したら私は何て言われるかなとふと思って。おそらく「俺のときよりマシだろう?」そんなこと言われるだろうと。「まだ全然大丈夫な状況だったのに、俺が命がけで立て直した会社をお前らは親子げんかの果てに、やるべきことをやり尽くさないで潰したのか」って、祖父にあの世で責められるのだけはごめんだとその時思ったんです。もう父を罵っていても何も変わらないし、私を戻したってことは、父にも何か考えがあるわけだろうと思い直しました。だから、父の考えにもしっかり耳を傾けて、この会社を何とかしていこうと、心を入れ替えたんですね。
そうすると「おまえが落ち着くのを待っていたんだ俺は」と父の方から話し出してくれました。それまでは私から一方的に「もう絶対駄目だろう、どうにもなんないだろう」っていう否定的で諦めたような言い方ばかりをしていたので、父は私に話ができなかったみたいで。父が言うには「厳しい状況なのはお前の言う通りだ。だけどこの会社にもまだ可能性はあるんだ。だからおまえを戻したんだ」と。
生駒:可能性というと、経理担当の部長をはじめ優秀な人材が会社に残ってくださったのも大きいですね。
佐田:そうですね、経理部長は日繰り表をこねくり回して、なんとかやっていけるよう作戦を立ててくれました。普通「半分しか支払えません」って言ったら相手はブチキレてもいいと思うんですよ。でもその経理部長がいると、相手もキレるタイミングを失ってしまうというか、しょうがないですねみたいな空気を作るような経理部長だったんですよ。もう一つは、そんな厳しい状況なのですが、当時の幹部の重要な人材は、誰も辞めてないんですよ。確かに「辞めてもしょうがないよね」っていう人は何人か辞めていきましたが、この人はっていう人は辞めてないんですよ。これはリーダーに対する信頼、愛着によるもので、父も祖父も圧倒的なカリスマ性を持っていたからだと思います。
生駒:そこから今度は4代目が先頭に立って手腕を発揮していかれるわけですね?
佐田:父は意外と体が弱くて、現場にズカズカ入り込んでマイクロマネジメントするようなタイプじゃなかったんですよ。それが父のキャラクターだったんですけど。一方で私は当時29歳で若かったこともありますし、現場にガンガン入っていきました。「全部教えてください、見せてください。一緒にお客様の所に同行しますから。お客様はなんて言っているんですか?それは本当ですか?」などと、納得できないことは全部聞いてメモしながら回りましたね。それで集めた情報を全部まとめて会社の状況をレポートにして父に提出したんですよ。そうしたら「すごいな!よくこんなに細かく見てきたな。うん、おまえの言っていることは正しそうだな」って言ってくれて。それがきっかけで工場と営業の現場を私が指導することになったんです。今までのやり方の問題、課題が詳細なレポートを作成することで浮き彫りになったので、ここからはドラスティックに刷新していくわけですね。最初に営業の現場、次に製造の現場と着手していきました。
まず、営業の現場でこれまでのやり方を変えるって言ったら、「とんでもない4代目がやってきた」と。私が生まれる前から勤めてきたような人たちが、幹部を張っているわけですからね。「そいつが何か大学出て帰ってきたと思ったら偉そうなことを言いやがる。自分たちのやり方を否定し始めたぞ」と大反発でした。そりゃ29歳ですから何を言っても「うるさい学卒が!」みたいな。自分の周りには大学卒しかいなかったので「学卒」なんて言葉は言われたこともなかったのですが、調べてみたら、大学卒っていう意味でした。 ポジションが上の上まで行っちゃった方々っていうのは手の抜きどころが分かっているんですよ。だからお客さんとも結構ツーカーでやっているので、何かを変えて今以上のチャレンジはしたくない。なんならできないっていうマインドになっちゃっているんですよね。それを「やんなきゃ駄目でしょう!」みたいな話を私からされるわけです。するとものすごい反発で。
営業部長が5人いたんですけど、3人から「やってられるか!」って辞表を叩き付けられまして。現場に戻って「●●部長から辞表もらっちゃったよ」って報告したら今度は若手たちから「●●部長が辞めたらもうこの会社終わりです!あの方に付いているお客様をみんな連れて抜けられたらどうするんですか!ただでさえ今売り上げが足りなくて困っているのに。若社長に腹を立ててそうなっているんだから謝ってくださいよ」なんて言われて。そう言われたら私も「そうか、言い過ぎちゃったかもしれないな。若いのになんか生意気なこと言っちゃったな」みたいに少し反省しまして。なのでその件を父に相談しに行ったんですね。そうしたら父に「そんな辞表は受け取れ」って言われたんですよ。
生駒:売り上げが足りない状況で部長クラスが辞めてしまうリスクもある中で、そのお父様のご判断はすごいですよね。
佐田:今思うと本当に感謝しかないんですが、「部下は上司のひるんだ顔は絶対に見逃さないから、ひるむな。笑って受け取ってこい」って言われて。実は、辞表を出した部長勢は、私に脅しをかける前に父に相談に行っていたんですよ。その時点で父から「展隆に俺は賭けたんだ。あいつの言う通りにやって駄目だったら仕方ない。俺はもう覚悟はできているから、お前らもあいつの言う通りにやってくれ」って言われてしまい、彼らとしてはもう耐えられないわけですよ。父にそう言われたら最終手段で私に頭を下げさせるしかないということで辞表を持ってきたんですね。
だからあの時に父が私を選んでくれたこと、私を支持してくれたことに感謝しています。その時父は「あいつの持ってきたレポートは正しい。今までお前らのやり方で駄目だったのだから、あいつを言う通りやってみろ。筋通ったこと言っているんだから。あいつの言い方が悪いのは俺が謝るから」って言ってくれたらしいのです。それでも、私の方針に従いたくないと5人の内3人は辞めていきましたね。まだ戻って来て数ヶ月のことです。若手たちには、私が辞表を受理しますって言ったらギョッとされましたよ。確かにその若手たちが言う通り、辞めた人間が結構大口のお客さんを連れてっちゃうんですよ。だから急に仕事入ってこなくなって、「●●さんからの受注が止まりました!若社長どうするんですか!」って現場は大騒ぎで。
もうしょうがないからお客様の所まで話しに行くわけですよ。「仕事が来ないんですけど、どうされましたか?」と。「いや、なんか佐田さん、うちと商売したくないんでしょ?」みたいな。「いやいや、そんなことはありませんよ!誰からそんな話聞いたのですか?」という話になり、結局辞めていった部長が競合の工場とかに私の悪い噂を流しまくっているわけですよ。
生駒:それはひどいですね。
佐田:だから、「いや、そういうことではなく、うちの会社はこういう状況でして。御社にとっては実質値上げみたいな形になるのでつらいかもしれませんが、うちも本当にもう後がないんです」みたいに腹を割ってちゃんとお話しをしました。すると、「あれ?若社長って何か噂に聞いていた人と何か違うね。そっか、やっぱつらいよねこの値段じゃ。●●部長がOKって言うから、心配しながらもこの金額で出していたんだけど、確かに他社と比べたら安すぎるもんね。じゃあ値上げしていいよ、正直に話してくれたから。佐田さん応援するつもりでうちも頑張るからさ。その代わり納期とか品質とかは頼むよ」と。「そっちは任せてください!今後は私が工場に行って、絶対おかしな物は出させませんから」みたいなことをお約束したところ、また発注を再開してくれたんですよ。
生駒:そこは佐田社長の誠意、誠実っていうところが伝わったのでしょうね。
佐田:確かに、私は結構まっすぐなタイプなので、みんなからも分かりやすい性格だって言われますね、裏表も全然なくて。言ったからにはということで工場に行って工場長と喧嘩してもお客様との約束は守りましたし。それで喧嘩をした工場長から父のところに告げ口が行っても父は私の背中を押してくれましたし、工場側のフォローもしてくれて。中国の工場長は辞めていきましたが宮城の工場長とは喧嘩した結果、逆に私のことを認めてくれて。「おまえ結構面白い奴だな。営業は部長含めみんな俺のこと怖がっているから、ちゃんと話しに来ないんだよ。若いのに頑張るな」って褒めてくれましたね。
生駒:その工場長が今度は中国に行かれるんですよね?
佐田:はい、その方が製造のトップだったんですよ。当時も8割は中国工場、高級品が国内工場で縫っていたんですよ。ただ、その中国の8割の品質が問題になっていたので、その方に中国工場に行ってもらうべきだっていうことを父に伝えました。そうしたら父は「あいつは障害児の子供がいて大変な中うちの会社で働いてくれているだけでもありがたいんだから。家を空けられないから海外なんて無理だろう」って、なんか妙にウェットなことを言うんですよ。私にはロジカルにキチキチ詰めてくる父がですよ。「いや、お父さんさ、うちの会社は今そんなこと言える状況?うちのメイン工場ってどこ?うちの勝負できるところってなんなの?」って言ったら、「北京工場に決まっているだろ!いつも言っているだろ!」って返してくるんですね。「そしたら、何?うちの製造のトップは国内にいるの?お父さんの言っていることおかしいよね?」って今度は私が返したら「う~ん、確かに、そうかもしれないな」と。
それで父と一緒に話しに行ってみたら、即答でしたよ。「いや、そろそろ社長から言われると思っていました。親戚にもちゃんと話をして準備してありますから。もう明日にでも北京に行きますよ。」と言ってくれまして。どうやら中国の工場長が辞めたって聞いたときから自分が行くしかないと思ってくれていたみたいなんですよ。それで、工場長が変わった途端に品質がガラリと良くなって。いかに前の工場長が手を抜いていたかって話なんですがね。大体私は、全うなことを言う人間で、変なことは言わないわけですよ。そういう人間に腹を立てて辞表を叩き付けてくるような人というのは、何かしら負い目があるんですよ。手を抜いているって自覚があったりですとか。「あの資料を出せ、この資料出せ、来月までにこれをやっていきましょう。今のメモしましたからね。分かりました?何月何日何時までにこれですよ」ってやっていくと資料からも内情が分かるじゃないですか。
正直国内の方はそこまで掘り下げませんでしたけど、辞めてった3人の方々も、自分たちが相当手を抜いているって自覚があって、「どうもこいつの言う通りやらされるとすごい面倒くさい大変なことになるぞ。今はお客さんとうまくやりながらぬくぬくやれているのに」っていう人が辞めていくんですよね。だから、そういう人たちには辞めてもらって、若手を引き上げていったら、大体1ヶ月も経つと「あの人いなくなってもらってよかったですね」なんていう話が、結局現場から出てくるんですよ。
生駒:やはりそういうところに人の成長ってありますからね、「働きアリの法則」というか。
佐田:当然、若手は上の仕事までやらない方が楽じゃないですか。そこに甘んじちゃってるんですよね。でも上が退社していなくなった、役職が引き上げられた、給料もちょっと上げてもらったとなると、自分がやんなきゃいけないと。「大変だけど」と言ってやる人は成長しますから。だから営業評価についてもかなりシビアに見るよう改革しましたね。それまでは、とにかく営業成績として着数さえ上げれば、社内の英雄だったんですよ。着数だけ追っていくと、赤字でもいいわけじゃないですか。それをみんなやっちゃっていたんです。だから「予算は売り上げじゃなくて粗利で作ります。赤字で売ったら予算が余計膨らんでいきます。利益を出さなかったら営業じゃないんですよ。未達粗利の何%は給料から引きます」っていうふうにほぼ罰則みたいな評価基準も設けましたね。
生駒:確かにそれは厳しいですが、でもそれぐらいの意識改革をせざるを得なかった状況だったのですね?
佐田:本当にぬくぬくしていましたので。それまでも、お客様に手もみして、またちょっと呑みに行きますかとかやっていればそれなりの仕事はもらえていたんですよ。ただそれだと、そこから次の段階、レベルへってできないじゃないですか。だから先ほども言いましたが、「ちょっと実質値上げになるかもしれませんが」と、こっちの会社の状況の話もした上で、「こういう仕事はぜひ欲しいのですが、逆にこういう仕事は生産性を下げるので、できればこういう仕様は控えていただきたい。この仕様についてはアップチャージとして値上げをさせていただきます。その代わりこちらの加工賃自体は据え置きにしますので。トータルしたら値上げになりますから。こちらを少し減らしていただければうちの生産性は上がるので、そうするとうちも今の状態でも黒字になるのでやっていけるようになりますから」というような交渉をすることで落としどころ見つかるわけですね。
でもこれをやらずになあなあでやっている方が正直楽じゃないですか。だから私はそういったことを「一つひとつきっちりやっていきましょう」とやり方を抜本的に変えていったんです。当然反発も出ましたし、抜けていく人も結構出ましたが、本当にこの会社にとって大事な方々は、誰1人抜けませんでした。このおかげで業績のV字回復を成し遂げることができましたね。
生駒:それで、小売りの方に少しずつ目を向けていかれるわけですか?
佐田:そうですね、ただ、あの時点で小売りを始めた目的は、卸しを伸ばすためです。「メイドインチャイナのフルオーダーなんか欲しがる人間は日本にはいない!」っていうふうにテーラー勢から言われていたんですよ。でも自分が買う側の立場で考えたら分かるわけですよ。同じものが安かったらメイドインチャイナでも買いますよ。青山さんとか青アオキさんで売っている既成のスーツもほとんどがメイドインチャイナなわけです。なのに、なんでフルオーダーだけ、メイドインジャパンじゃないといけないのかと。そんなわけないよなと考えて、何度も話を持ち掛けてみても、そういう先入観を持っているテーラーさんはメイドインチャイナのフルオーダーだけはいらないって言うんですよ。
なので、そういう方々の目を覚まさないと、ということで、自社で小売りをやることにしました。特に若い人向けに、「フルオーダーがこの値段ならどうですか?」と、当時楽天にお店を出したところ、うわーって売れたんですよ。その実績を基に再度テーラーさんの所へ行って「こんなに売れましたよ。この方々の年齢は平均何歳です。お宅のお客様で20代、30代前半の方っていますか?」みたいな。当時のフルオーダーのテーラーのお客様なんて、ほぼ団塊の世代で若い世代はほとんどいませんでしたから。「こんなに若い世代が買うんですよ。なぜだか分かります?そう、値段が安いからですよ!メイドインチャイナかどうかなんて気にしないんですこの世代は」というようにテーラーさんたちに興味を持ってもらいました。「そういう安いゾーンの仕事は佐田さんのところの生地使って、中国工場で製造すれば確かにこのぐらいの値段で売っても十分利益出るよね。」と、ニーズがあること、利益も十分確保できることは理解してもらったのですが、「でもこんな安いのをうちの店に並べたら、うちのお客さんたちはみんな安い方買うようになっちゃうんじゃないかな?」って怖がっていたんですよ。
なので、これについても「いいえ、何件かでテストしましたが、この方々は動かないです。メイドインチャイナのフルオーダースーツはこの世代は買いませんから、あなたの既存のお客様には影響は出ません」と言い切れる背景データも持てたので、これを前面に打ち出していきました。「既存のお客さんの息子さんとか、社長さんの従業員さんの若い層とかが来ますから。だから、こういう低価格帯の商品もあるので、若い方を紹介してもらえませんかっていうのを全てのお客様に電話かけて聞いてみてください。うちのこの商品使って売り上げ伸ばしているお客さんはみんなやっていますよ」と言って、テーラー勢に動いてもらったんですよ。そしたらドッと売れるわけですよ。もうウィンウィンじゃないですか。うちも中国工場が回るようになって利益も出るわけですからね。中国工場の仕事も増え、国内工場では、難しい仕様に対応しつつ、ただしオプションとして実質値上げして。それをお客様が受け入れてくれたことで、国内工場も中国工場も利益が出てというふうになって、V字回復したんですよ。
生駒:まさにフルオーダースーツ業界の規制概念を変えていかれたと。
佐田:私は外部から入った人間なので、既成概念っていうのが分からなかったんですよ。フラットに見て、普通にロジック固めていったら、「なんでメイドインチャイナのフルオーダーは売れないのですか?」っていう素朴な疑問に辿り着くんですよ。それに対して明確の答えもなしに「そういうものなんだ!」みたいなことを言われても、そういうのは私には通らないですから「そういうもんだじゃなくてちゃんとした理由がないと私は納得できませんよ。お客さんに聞きました?」って言うと、「聞いてないけど、買うわけないだろうそんなもの!」みたいな。この辺でロジックが破綻しているじゃないですか。だからそういうテーラーさんに言っても通じないから、じゃあ自分でやってみようということでテストしてみたら、若い人にも売れると。
それで次は、既存のお客様たちが安い方にみんな流れちゃって、売り上げが半分になるみたいなことを恐れているんですけど、これについても、この層は動きませんというデータを示したら、後はやらない方がおかしいですよね。「若い新規のお客様が取れますから、既存のお客様の息子さんとか社員の若い方にはこっちの方が売れますから。かといって既存のお客様のゾーンは安い方には流れませんから、そこはほとんど変わりませんよ」って言ったら良いこと尽くしじゃないですか。それでうちも売り上げが復活していきました。そこでも抜けたお客様はいるんですけど、それを上回って余りあるぐらい多くの仕事を入れてくださいまして、私が戻って半年で黒字にすることができました。8,000万の赤字からトントンまで、次の期は営業利益1億出して、その次の期は1億7,000万出すところまで持っていき、この辺から中国工場を使って、競合工場のお客様を開拓していくってことをしたんですよね。
生駒:その辺のアグレッシブさが素晴らしいですね!
佐田:いや、うちも必死でしたからね。ただ、新規開拓なんてほとんどやったことない営業しかいなかったので。「新規開拓って何ですか?どうやるんですか?」とか言っているわけですよ。「じゃあまずはリストを作って」って言うと「それどこにあるんですかね?」って。「電話帳を持って来てテーラーって検索してください」と。「えっ!?こんなにやるんですか?」「いや、やるんですよ!」というようなスタート地点から、実際に自分でもやってみせながら、徐々に開拓を進めていきました。それでいざ営業してみると「説明しに来てよ。本当にメイドインチャイナの商品なんて売れるの?」みたいに半信半疑でも興味持ってくれる方が出てくるわけですよ。このように新規開拓も順調に進めば、自ずと客数も増えて、着数が増えれば当然原価も下がってくるんですね。そうしたら利益もどんどん出るようになる。内心、「やった!うまくいったぞ、このままいけちゃうんじゃないか」と思ったんですけど、この辺がやはり経営者経験がないので、利益を出しても借金は減らなかったんですよ。
生駒:そこでファンドが登場するわけですね?
佐田:そうですね、もう借金が全然減らなくて、私の一生かけても返しきれないんじゃないかみたいな額なわけですよね。そんな中、債権者と「元本の返済を止めてもらって金利だけ払ってくれさえすれば5年ぐらいはそれでいいですよ」っていう口約束ができていたので、何とか生きていましたけど、これそろそろ元本返済を開始してくれって言われたら、もう無理なわけですよ。それで近い将来、破綻が見えているような諦めムードみたいになってきたときに、銀行の支店長さんから呼び出されて、「そろそろお話する段階だと思うんです。御社のひどいバランスシートを見ると、損益は素晴らしい黒字じゃないですか。でもこの借金は返せないですよね。社長の顔見ればわかりますよ。無理だと思ってらっしゃいますよね?我々も全額回収しようとは思っていません。そこで提案です。今、債権放棄をして、バランスシートを綺麗にして、本当に良い会社にするっていう手法が、企業再生の一般的な方法になってきているんですよ。大企業さんでいうと●●社や▲▲社なんかもみんなやってもらっていますよ。だから御社もそれをやったら本当にいい会社になると思いませんか?例えば当行が借金回収も半額でいいと言ったらどうですか?」って言ってくれたので、「それならやれますよ!」と。
25億を10億くらいにしてくれたらいけるんじゃないかと。この時営業利益7,000万出していますし、減価償却とか入れても2億以上キャッシュを出しているわけですよ。なので、年に1億ずつ返していけば10年で綺麗になっちゃうじゃないか。私が40になったときには無借金じゃないかと。半額以下ぐらいしてくれるんだって支店長から希望をもらいまして。そのとき支店長に言われたのは、「当行としてはもう正直準備していました。あとは他の金融機関の足並みさえ揃えられれば、メイン行がこう言っているので、で通ると思うんです。御社は実際利益出していますから。あとは金融機関の足並みを揃えてくれるために政府が作ってくれた協力機関、中小企業再生支援協議会(※)ってところがあるのですが、ここに足並み揃えてもらって全行が分かりましたと言えば、半額ぐらいの借金棒引きはやれるはずです」って言ってもらってですね。
※「中小企業再生支援協議会」とは、中小企業の再生に向けた取り組みを支援するため、産業活力の再生及び産業活動の革新に関する特別措置法に基づき、都道府県 ごとに設置されている公正中立な公的機関。 事業の収益性はあるが、財務上の問題を抱えている中小企業を対象に、きめ細かい 相談・再生支援を行う。
ただ、今は本当に一般的な手法になっているのですが、当時は都銀が大企業に対してやる手法だったので、地銀さんとかは知らないわけですよ。だから大荒れに荒れて大変でしたね。保証協会からは「債権放棄の実績はありません。まして中小企業で法的再生でもないのに一律での借金棒引きなんて、あり得ません!」って言われて、そこをのんでもらうのに時間かかったんですけど、いろんな方が応援してくれて、説得してくれて「もう特例中の特例ですよ」と、最終的にOKしてくれたということがありました。それで、バランスシートも綺麗になって綺麗な会社になるということになったんですけど、ここに行き着くまでにいろんな専門家さんがいらっしゃって。法務デューデリジェンス(※)、ビジネスデューデリジェンス、そして財務デューデリジェンスを徹底してやられるんです。
※「デューデリジェンス」とは、企業の経営状況や財務状況などを調査すること。「Due(当然の、正当な)」「Diligence(精励、努力)」という意味で、「DD(ディーディー)」と略されることもある。
それで、この財務DDの結果、父が凄まじい粉飾決算を繰り返していたということが明るみに出まして。これ中小企業ってそうなのですよ。生き残るため、金融機関に切られないために、隠すべきものは隠さないとってことをやっちゃうんですよ。ただ、これを父は派手にやりすぎた。それで結果的にメイン行の担当が審査部に変わりまして。審査部っていうのは数字しか見ないです。私たちの話も何も聞いてくれなくて「なんなんですかこれは、粉飾だこれは!当行を馬鹿にするのもいいかげんにしろ!」みたいに言われて何度も泣きそうになりましたよ。そういった経緯を経て、一応私的再生をしましょうと。正直、審査部は、半分放棄でいけると踏んでいたそうなのですが、85%債権放棄しないと、この会社はまともな会社になりませんっていう話になったんでブチキレたんすよ。「半額、まあ6割放棄までは稟議を上げていましたよ。それがなんですか85%放棄って!当行だって貸し倒れ保険かけているので1割ぐらいは返ってきますけど、再生計画10年かけて1割が15%に増えるだけってことでしょ。やってられませんよそんなの!今すぐ潰れてくださいよ!」って言われてしまいまして。
「いやそうではなく、うちが潰れてしまうとテーラーさんたちもみんな困るんですよ」ってそういう方たちにヒアリングして、「佐田さんがいなくなったら本当に困ります」みたいな声をかき集めたレポートを見てもらって、最後は何とか説得できたんですけど。「佐田家だけは許せん、佐田家は腹を切れ」つまり自己破産しろという話が交換条件でのみましたね。この条件について父はもう覚悟できていたので。「従業員の雇用が守られるならば、あとは展隆の人生がぐちゃぐちゃになって終わったりしないならば俺は何でも差し出す」というようなことを金融機関に言ってくれて。ただ最初は「こういうこともあろうかとお父さんはヤバいところからは金借りてないから。まともな金融機関からしか俺は借りてないから夜逃げする必要もないから、親子揃って自己破産するぞ」みたいな話だったんですよ。
なんですけど今度私が個人デューデリジェンスされたら、「東レ」から帰ってきて3年ですから、資産みたいなものは何も持ってないわけですよ。なので「経営者は私に続けさせて、我々が連れてきた経営者にちゃんと引き継ぎをさせたい」っていう話を、そのファンドが言い出してくれて、金融機関団を説得してくれたんですよ。「展隆さんは何にも資産を持ってないので、自己破産させたってお宅らも何のメリットもないでしょ?お父様が全部持っているんだから、お父様にちゃんと自己破産してもらって、出すべきものを出してもらって、経営者としての責任を取ってもらって、息子さんは戻って来て3年バタバタやっていただけの人だから、逆に引き継ぎをちゃんとして綺麗に辞めてもらった方が角も立たないし。息子さんは結構社内でも人気あるみたいだからこの人について辞めていくみたいな人も出ないようにしますから。その代わり自己破産を免れさせてあげましょうよ」という話をファンドが金融機関団を説得してくれたんです。だから私は脛に傷を負わずに離れることができたんですね。

生駒:それから3年間修業というか、外にいたんですよね?それでまた呼び戻される時が来ると。
佐田:そうですね、ただ、家が破産するって、結構大変で。破産によって住み慣れた家から引っ越したら、当時80歳だった祖母が、心筋梗塞で三、四ヶ月で亡くなったんですよ。また父が結構親戚からも金借りまくっていたわけですよ。金融機関に対しては15%残しているんですけど、その親戚から父がかき集めてきた金は佐田家のお金って扱いになっているから、1円も返してもらってないわけですね。親戚も言いたいことはわかるのですが、うちの祖母が亡くなったことを引っ張ってきて、私が殺したと。「展隆くんはおばあちゃん殺しなんだ」みたいなことを、親戚で集まると言われるわけですね。私は祖父と祖母が大好きでね。祖父は先に亡くなっていて、おばあちゃん孝行っていったらそのチャンスももらえなくて、挙句の果てには親戚からそう言われて、私はへこむわけですよ。そういう状況に今度は母親が相当落ち込んでしまって、癌になっちゃって。それから4年の闘病を経て他界してしまいました。だから自己破産がきっかけで私は祖母と母を亡くしているわけですよね。
そんなつらいこともありましたので、それでまさかまた戻ることになるとは思ってもいませんでした。後を託した、「伊藤忠商事株式会社」系列のファンドがリーマン・ショックを遠因として破綻しちゃうんですよ。それで解散になっちゃって、うちの案件が宙に浮いちゃっているから金融機関さんが「どこか引き受けませんか?」って募集したところ、うちの一番大きかった卸先、結構大手の流通さんですが手を挙げてくれて「いいよ、一応オーナーやっても。資金繰りの面倒見るから」と引き取って子会社として支えてくれたんですね。なんですけど、そこへ東日本大震災が来てうちの宮城工場が被災してですね。「そごう」亡き後、うちは全国のテーラーさんたちに支えてもらっていたんですよ。国内工場は宮城県にあるので、東北のテーラーさんたちがうちの主力の卸先だったんです。このテーラーさんたちがあの震災で大量廃業してしまうんですよ。それでまた赤字転落と。
売り上げの3分の1が瞬時に消えてしまって、それを受けてそのオーナーさんも「すまん、もう面倒見切れん」と。100%子会社が倒産したとなると、守れなかった親会社も大丈夫なのかって疑われるのが迷惑だからということで、「貸した金は返さなくていいから、半年存続してほしい」といって縁を切られてしまったんです。当時の専務が株を押し付けられてオーナー社長にさせられて切り離されちゃったんですよ。その方ももう70歳ぐらいの人でしたし、大赤字でどうしていいかわかりませんということで、私に連絡がありまして。その方が私を金融機関と引き合わせてくれると言うのですが、「20億踏み倒した社長なんて、金融機関が戻ってきていいって言うわけないじゃないですか」って言っていたら、どうやらメイン行が変わっているから問題ないらしいと。それでちゃんと話を聞いてみたら、「戻ってきてほしいと我々も思っていますよ。御社の方々、誰にヒアリングしてもあなたの名前が挙がります。そういう方であれば当行としては戻ってきてもらうのもやぶさかではありませんから。ぜひお願いできませんか?」って言うわけです。こんなことってあるのかと驚きましたね。
生駒:それでまた戻ってこられて、内情をご覧になっていかがでしたか?
佐田:また今回もこれまでと似たような状況でしたね。もう簿外の未払い債務みたいなのが大体どの辺にあるかなんてのは分かるわけですよ。そんなにあるんですかみたいな。あとはもう在庫の積み増しですね。利益出しの常套手段ですけど。
生駒:また、戻るときに奥様から猛反発されたとのことですが、そのあたりはどのように説得されたのでしょうか?
佐田:妻とは私がサラリーマンのときに結婚させてもらったので、まさかまた社長に戻るとは妻は当然思っていませんでしたし、父まで「もうやめとけ。今働いているところで給料もらっているんだからさ」と反対されまして。その時私はコンサルにいましたから給料は良かったんですよ。私が戻ろうと思うって言ったら妻が泣きじゃくってですね、「おばあちゃんも死んじゃってお母さんもステージ4でホスピスに行って。私まであんなふうにする気か!」と関西弁で言うんですね。なんですけど、リーマン・ショックと震災がなかったらこんなことはなかったわけですね。それから、既存の従業員さんたちの父や祖父に対する愛着がなかったら、金融機関のヒアリングを受けても、私の名前なんて出ないわけですよ。それは父や祖父に対する愛着なのですよ。これがなかったら、こんなことになってない。もっと言えば、後で知ったのですが、最初のファンドなんて、実はハゲタカファンドだったので、会社をバラバラにする気だったんですよ。「この中国工場とこれを回すシステムは面白いよね。これをどっかの会社に売却しよう」ということを考えていたようで、バラバラにする気だったと思うんですよ。
ところが、その段階に入る前に自身が破綻しちゃったので、結果としてうちの会社は五体満足のまま残っていたんですよ。という諸々の事を考えると、もう奇跡としか思えなくて。ほぼ五体満足で、社名も変わってない。メンバーを見てもほぼ残っていると。それでみんなが私の名前を呼んでいるって。しかもメイン行が変わっていて、そこには迷惑かけてないんですよ。こんなことも奇跡にしか見えなかったんですよね。そこで思ったのは、「これ絶対祖父が裏で糸引いているよな」って。そう思ったら、絶対そうだと思い初めて、もう間違いないなこれはと。それで本のタイトルにもさせてもらったのが祖父の口癖です。「迷ったら茨の道を行け。騙されたと思ってそうしてみろ、その道が正解だから」と訳分からないことを言うわけですよ。小さいときにそれを聞いても「誰が茨の道なんて!」って思うじゃないですか。でも大人になって、ここまですったもんだの経験をしてみると、意外とこれって正しいよねって経験則上わかってきたように思います。
祖父が小学生の頃から、この言葉を私に刷り込み続けたのも、もしかしてこのタイミングで、私に戻るという意思決定を、妻を説得して戻るっていう意思決定をさせるためだったのではないかという気分になったら、もう戻る気しかないわけですよ。それで「この話を断ったら本当に男が廃ると思う。こんなに頼りにされているんだから」と、一生懸命妻を説得して戻ることができたんですよね。
生駒:それで戻って、そこからまたもう一度会社を再生させるのは、本当に茨の道を突き進むということですね。
佐田:前回は製造卸業として、卸の売り上げを伸ばしてテーラーさんを新規開拓して復活させましたけど、今回は、開拓先がなくなっちゃっているくらいテーラーさんたちが弱っちゃっていて。でも震災で売り上げ3分の1消えているわけですよ。だからまずはこの売り上げを取り戻さないとどうにもならないので。それで、どうしたものかと考えたときに小売りという発想に至りまして。
以前、テーラーさん開拓用に楽天に出した小売りのお店。この時点でいくらかは小売りのノウハウも溜まっているじゃないですか。だからこれを活用できないかと。ただ当時は利益を上げる必要はなかったんですよね。なぜならテーラーさんに実績とデータを見せるための店だったので。だからこれをちゃんと黒字化できる店をこれから作っていって、震災で失った売り上げを取り戻したらいいんじゃないかと考えたんですね。卸売りより小売りの方が利益率高いし、うまくやればいけるんじゃないかなと。この戦略でまた企業改革をして売り上げを取り戻すぞと。
生駒:そのとき社内の抵抗勢力的なところはどうだったんですか?
佐田:抵抗勢力は会社の全上級幹部が敵に回りまして、経理部長、営業本部長、国内の工場長、中国の工場長、そして受注物流センターのセンター長。この5人が上級経営幹部だったんですけど、また全員から辞表が出てきました。ただこの5人が同時に辞表を出していたらさすがに無理だったと思います。ただうまい具合に1人ずつ順番に、1ヶ月おきぐらいに出されたので。1ヶ月あったら、下の人を引き上げてその間ずっと張り付いて応援してあげると。実は、現場って辞表を出した部門のトップじゃなくてその下の人が回しているのですよね。
だからこの人が引き上げられて困るのは、社内社外交渉だけなんですよ。私は、4代目の看板背負っていることもありますから、社内社外交渉をやりやすいじゃないですか。だから私がこの人に張り付いてやりやすいように環境を整えてあげると自信持ってくるわけですよ。仕事が面白くなってくるとびっくりするくらい働いてくれるんですね。ということをやったわけです。そうしたらまた震災で失った売り上げも、ちゃんと小売りで取り戻すという戦略が花開きまして。私は最初22億のときに会社に戻りましたけど、新規開拓、中身の入れ替えもしながら、24億の売り上げにしてファンドに渡したんですよ。で3年経って帰って来たら、震災で売り上げがポンと消えて、17億です。ちょうど売り上げの3分の1が消えているので。
それで、ここから回復して、9年連続増収です。店もいっぱい出しましたし、人も一生懸命採用して、知名度、信用度を上げるために、お試し19800円でフルオーダースーツというものを改めて打ち出して。打ち出してみたら「嘘つき!どうせ超劣悪商品なんだろ!」と叩かれ。破れないっていうのを示すためにスーツ着て山登ったりスキーしたり、トップアスリートにもこんなフィットしたスーツが作れますよということをやってですね。何とか思い描いたような、ある程度安定した会社になることができましたっていうのが、ここまでのストーリーです。
生駒:その中で初めて賞与、ボーナスを出せたときはどういうご気分でしたか?
佐田:そうですね、社員たちは皆ボーナスなんてないのが当たり前だと思っていたみたいで。利益とか余裕はなくて、ちょっとだけしか出せなかったのですが喜んでくれましたよ。半月分とかだったかな。それでも拍手喝采でしたので。
生駒:それは額じゃないですよね。やはり会社の姿勢、従業員の皆さんを絶対守っていくのだっていう先代からの血というか、魂というか、そういう現れなのかなと思いますね。
佐田:あのことだけは多分あの世で祖父にも褒めてもらえると、そう信じています。最近ずっと一緒にやってきた父が他界してしまいましたが、あとはあっちで私のことを見守ってもらって、私もまだその年に行くまでは30年ぐらいありますから、もう一仕事はできると思っているので。もっと良い会社にして、改めて向こうで再会したときには、祖父にも父にも、「展隆よくやったな!俺もお前がここまでやるとは思わなかったぞ!」と言ってもらえるぐらいのサプライズ的な実績を作ってから会いに行こうかなと思っています。
生駒:これまでの人生でアップダウンを繰り返される中でご自身の中で、一番のターニングポイントはこれだっていうのを一つ決めていただくとしたら、どこのどんなシーンを思い浮かべますでしょうか?
佐田:2度目にこの会社に戻ってきて、震災で失った売り上げを小売りで取り戻す、ちゃんと利益を出す小売りをやるという方針を打ち出したこと。幹部全員から辞表を受け取ったりもしました。「店を出すノウハウなんかどこにもないのに、うまくいくわけない!」って言われても新宿にお店を出すって方針を曲げませんでした。今まで100%製造卸だったので、テーラーさんたちがお客様なわけですよ。このテーラーさんたちからすると、うちが直接小売りをやるということは、自分たちの土俵に仕入れ先が上がり込んできた。つまテーラーが敵という見方をされるんですね。それが営業本部長からすれば迷惑だと。「これだけうちを支えてきてくださったテーラーさんたちを敵に回して、あなたは馬鹿ですか!」ぐらいのことを言われたんですよね。
でも他に、震災で失った売り上げを取り戻す方法なんか思いつかなかったので、やるしかないじゃないですか。で、その最初に出店する店をどこに出店するかということを考えたときに、やっぱりサラリーマンがいつもいっぱいいる所っていったら新宿でしょう。乗降客数世界一の駅ですよ。だから新宿に出店したんです。この店が滑っていたら今はないですね。それまでの店はテーラーさんの注目が集まるような店を作ればよかったので、立地の悪いところで売り上げを上げるということが大事だったんですよ。でも今度は黒字を出すためにはどんな店が良いのかっていうのを考えなければなりません。ノウハウとか経験がほぼないので、本も読み漁って自分でも色々考えて、小売りの現場に立ってるメンバーからもいろいろ話を聞いて、なんなら卸先さんからもいろんなヒントをもらって。こういう単価設定で、こういう店を、こういう立地にということで出したのが、新宿の靖国通り沿いのビルの4階です。この出店が成功したのがターニングポイントだと思います。
生駒:でもその決断もすごいですよね。いわゆるオーダースーツだから別に路面店でなくて空中店舗でもいけるということですよね?
佐田:洋服の青山さんが若い人向けにしっかり売り上げを上げている店のそばだったら、市場がありますから。その内の一部の人に来てもらっただけでもうちの店は繁盛ですよ。だから洋服の青山さんの近くに出そう。これについても営業本部長からはそんな卑怯なこととか言われたんですけど、卑怯も何もないじゃないですか。そこに市場がある証拠でしょうと。そういうところもたまたまカチッとロジックがはまって。あとはお金がない中での出店だったので、オープンセールの売り上げから、敷金を払う。また内装費もオープンセールの売り上げから、さらに広告代理店への広告宣伝費もオープンセールの売り上げから払いますっていう組み立てにしたんですよ。
そうしたら経理部長が「あなたは気が狂っている!危ない橋じゃなくて橋がないところをあなたは行こうとしている!」とか言われて、どんな綱渡りだみたいな。これはいけるじゃなくて、もうこれしかないと思っていたんですよ。もうこれで駄目だったらしょうがないっていう思いですよね。本当にだから、桶狭間だったと思っています。結果的にうまくいって想定試算の倍売り上げが上がりましたので、資金、内装費、広告宣伝費も払うことができ、なんなら次の出店のちょっとした原資ぐらいまで稼いでくれたので、やはりこの新宿店のオープンが大きな転機だったと思っています。
生駒:なるほど。いや今のお話を伺って感じたことは、おじい様によって導かれたのかもしれませんね?
佐田:いやそれはあると思っていますよ。なんかこの勝負外したら終わるみたいなときって、意外と私は外さないんですよ。何でもないところではミスしますけど、ここで外したら死ぬみたいな山ではノーミスでいけるんですよ。これってどっかでじいちゃんが見てくれていてと。だからこのターニングポイントも何かの啓示だった気がするんですよ。
生駒:今更ですけれど、ご自身の口から改めて聞かせていただきたいのですが、座右の銘はこの言葉っていうとやはり?
佐田:はい、そうですね。「迷ったら茨の道を行け」という言葉ですね。ちょっと違う言い方で、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とかですね。こういう言葉を戦争帰りの祖父は私に残してくれたので、もうこの方向で私は生きていきたいというふうに思っていますね。そうしないと祖父や父に褒めてもらえないですから。
生駒:なるほど、本当に佐田家で代々培われてきた精神力、体力は本当に素晴らしいと感じます。最後に、これからのオーダースーツSADA様の野望、目標的なことをお伺いできますでしょうか?
佐田:そうですね、まだ年商規模も去年の期末決算で35億、今年でやっと多分43億ぐらいですかね。なんですけどまだちょっと小さいわけですよ。せめて100億企業ぐらいまではできるだけ早く、この先4年5年ぐらいで到達したいですね。そのぐらいになって立派な企業だと認識されれば、もっと世の中に発信力を持てるようになると思うので。その発信力を使って私は日本のスーツ文化を再構築したいと考えています。
生駒:再構築とは、既にある程度組み立てが進んでいるものを、一旦打ち壊して、再度組み立て直すことだと思いますが、どのようなスーツ文化を再構築されたいのでしょうか?
佐田:今はなんか、「スーツって何のために着るものでしたっけ?」っていうくらい、日本人は分からなくなっちゃっていると思うんですよ。だからなんかちょっと窮屈にも思うし、一方でダボダボにかっこ悪く着ている人もいて、「何であえてあんなもの着なきゃいけないの?」みたいな空気があるのが私には我慢ならなくてですね。ビジネススーツって元々は世界共通語での、そしてビジネスの場では、最上級おもてなしアイテムなんですよ。会う相手に「自分と会う時間を作ってくださってありがとうございます」というこの感謝と、そして「あなたを大切に思っているんです」という相手に対する敬意ですよね。この感謝と敬意を相手に伝えるための最上級のアイテムがビジネススーツなんですよ。このことを日本人は忘れてしまっているように思います。
私はこのことを改めて多くの日本人に思い出してもらいたい。日本人は元々おもてなしの心を世界一持っていると思うのですよ。だから、このおもてなし民族の日本人がその心を持って世界共通語の、この最上級のおもてなしアイテムをちゃんと着るようになったら、多分世界一かっこいいスーツ姿になると、私は思っています。そういう将来、そういう未来、そういう日本人を作っていきたいですね。そんな思いも込めてフルオーダースーツを着てあちこち行ったりして、別に窮屈じゃないよ。結構爽やかに見えませんかと広めているんですね。このポスターにあるトップアスリートもフルオーダースーツを着ることでより立派なジェントルマンに見えるでしょう。Jリーガーなんて片太ももで65センチとかあるわけですよ。本当偏った体型ですよ。でもスラッと見えませんか?ちゃんとご本人のニーズに合わせて、求める着心地と見栄えを実現できますから。ちゃんとフルオーダースーツを着ればこんなにかっこよく見えるんですよ。こういう格好で日本のビジネスパーソンは、大事な方に会いに行くのだと。これが日本人だというふうにしたくないですか?世界一のおもてなし民族なのですから、本来の日本人は。
生駒:素晴らしい。この記事をご覧になったあなたも、この機会にもう一度スーツを見直していただいて、ご自身にフィットする着こなしをしていただき、それがお相手へのおもてなしだということを感じていただきたいですね。そしてぜひオーダースーツSADAさんのところで、1着、2着、3着とお作りいただきたいと存じます。ところで、1着目はおいくらでしたっけ?
佐田:1着目はやはりハードルが高いと思っていますので、まず1着目はお試し19,800円から手に取っていただけます。そんなお値段からフルオーダースーツをお仕立てできますのでぜひお越しいただければ嬉しいですね。
生駒:ありがとうございます。ということで今日は私どもの企画「ターニングポイント 社長の流儀」復活の狼煙として、株式会社オーダースーツSADA 代表取締役社長 佐田展隆様にお話を伺いました。この記事をご覧になった皆様、オーダースーツSADAをみんなで応援していきましょう!今日は本当にどうもありがとうございました!
佐田:こちらこそ、ありがとうございました!
佐田:よろしくお願いいたします。弊社はフルオーダースーツを製造する工場を、国内では宮城県の大崎市と、それからメイン工場は中国の河北省に、それぞれ100%子会社として持っておりまして、この2工場で作ったフルオーダースーツを自社で、直営で展開している国内の46店舗で販売をしています。工場直販で価格競争力を持てるという強みを活かし、フルオーダースーツの価格破壊を起こしていこうという志で、「お試し19,800円から本格フルオーダースーツをお仕立てすることができます」と打ち出して、フルオーダースーツチェーンを展開しています。
ちなみに、フルオーダースーツというと、「レディースも作れるんですか?」」とよく訊かれるのですが、大体この業界はレディースは高く値決めするんですね。でも当社はメンズもレディースも同じ値段でやっています。例えば澤穂希さんの引退会見のときのスーツがうちのスーツなんですよ。そんな形でフルオーダースーツの良さを世に広めることを頑張ってやっている会社です。私が4代目社長として今この会社を引っ張らせていただいております。
生駒:佐田社長は大学卒業後、大手の「東レ株式会社」に入社されましたよね。その後お父様から佐田社へ呼び戻されたとのことですが、まずは、その辺の経緯をお話しいただけますでしょうか?
佐田:そうですね、「東レ」でまもなく5年間となるところで、父から「会社が大変だから、手伝ってくれ」と声をかけられまして。私は男3人兄弟の長男で4代目ですから、父に言われたら、会社を手伝うものだと思っていました。当時は工場、フルオーダースーツのつまりメーカーをやっていましたので、なるべくなら同じ繊維関係の会社で働いた方がいいだろうということで、私も「東レ」に行っていたんですよ。それで、いよいよ声をかけられたかと思ったのですけど、本当はもっと先だと思っていたんですね。当時私は29歳だったので、ちょっと早いなと思いましたね。あれは2003年の年末でした。
生駒:その時の会社の状況はどうでしたか?
佐田:当時の状況をいうと、うちの会社は百貨店「株式会社そごう」の下請け工場だったんですよ。「そごう」のフルオーダースーツはほぼうちで縫っていましたので、売り上げの半分以上が「そごう」だったのです。ところが、ご存知かと思いますが、2000年にその「そごう」が経営破綻しているんですよ。私はそのニュースを「東レ」にいたときに聞いたのですが、聞いた瞬間、父の会社は終わったって思いました。だって、売り上げの半分が飛ぶわけですから倒産するのが普通じゃないですか。
それで、帰るところがなくなったと思ったので、私はもう「東レ」で一生懸命やっていこうと腹を決めたんですね。にしてもそこから3年間経っても父の会社が倒産するって話が入ってこなくて。そんなことを考えていた矢先に父から連絡があって帰ってこいと。大変だから手伝ってくれと言われたので、「わかった、お父さん手伝うよ。大学までしっかり出させてもらって感謝もしているしさ」って二つ返事で承諾しましたね。
生駒:その時お父様からお声掛けいただけたことはすごく喜びに感じたと。
佐田:そうですね、やっぱり小さい時から父も祖父も経営者として人前に立って、朝礼で挨拶をしたり、パーティーとかでもマイクを持ってスピーチしたりと、話をするのが上手くて。そういう姿を子供ながらに見ていると、やっぱり憧れるじゃないですか。そんな父に頼りにされる人間になりたいと思ってずっと生きてきたので、手伝ってくれと言われたときは、もう本当に喜び勇んでというか、頑張って父の力になるんだと、相当の気合いを持ってこの会社に戻ってきましたね。
生駒:「東レ」側としても、多分将来の幹部候補となるであろう佐田社長を手放すのは惜しかったのではないかと思いますが、そこはいかがでしたか?
佐田:部長からは「ふざけるな!5年経ってやっとメイン戦力になったところで辞めるってどういうことだ!」と言われたんですけど、課長と教育係だった方は理解してくださいましたね。課長は紡績工場や織物工場、染工場のこととかをよく知っていたんですよ。「そういう会社は息子を戻したことで成長したみたいなケースも結構あるし、お父様もあなたの力を借りて会社を変えようとしているんだから。大変だって言うのならすぐ帰りなさい」と課長はものすごく理解を示してくれました。教育係の先輩も、今では経営者やっているような優秀な方だったので、「どうせ俺から引き継いだお客さんたちだし、皆さん事情わかっているから、引き継ぎなんかしなくていいからすぐ帰りなさい」と言って、承諾してもらいましたね。
生駒:それで、会社に戻られたときの状況が散々たるものだったと?
佐田:はい、もう本当にひどかったですね。売り上げの半分を占めていた「そごう」が破綻していますので。それでも会社が生き残っていたのは素晴らしいことだとは思うんですけど。当時、売上22億に対し、有利子負債が25億あって。今みたいに金利は安くないので平均してみると大体金利4.2%ですから、金利だけで年間1億以上払っているわけですよ。それで、3期連続8,000万の営業赤字で、しかもよく見ると3期連続キャッシュゼロなんです。
おかしいじゃないですか。私には資金繰りがちゃんとできているのかすら分からなくて、父に聞いてみるんですけど、ちゃんと教えてくれないんですよ。「お前に言ってもわからないだろ」みたいに言われて。私は戻ってきてすぐ25億の借金の連帯保証人になりましたから、もう逃げられないじゃないですか。こっちは人生かけて戻ってきたのにって考えたら腹が立ってきまして、父に「バブルに踊ったくそ経営者が!」ぐらいのことを言いましたよ。私もこういう性格なので言いたい放題言っちゃうんですよ。
生駒:それだけひどい経営状況の上、お父様との確執もあったのですね。でもそこから会社を立て直そうとご尽力されていかれるわけですが、どのように進めていったのでしょうか?
佐田:そうですね、あの時父を責め続けていたら、父の駄目なところばかり見ていたら、多分会社も私の人生も駄目になっていたと思います。2代目である祖父は戦争から帰って来て、東京大空襲後の焼け野原の中にあったこの会社を立て直したんですよ。そんな祖父とあの世で再会したら私は何て言われるかなとふと思って。おそらく「俺のときよりマシだろう?」そんなこと言われるだろうと。「まだ全然大丈夫な状況だったのに、俺が命がけで立て直した会社をお前らは親子げんかの果てに、やるべきことをやり尽くさないで潰したのか」って、祖父にあの世で責められるのだけはごめんだとその時思ったんです。もう父を罵っていても何も変わらないし、私を戻したってことは、父にも何か考えがあるわけだろうと思い直しました。だから、父の考えにもしっかり耳を傾けて、この会社を何とかしていこうと、心を入れ替えたんですね。
そうすると「おまえが落ち着くのを待っていたんだ俺は」と父の方から話し出してくれました。それまでは私から一方的に「もう絶対駄目だろう、どうにもなんないだろう」っていう否定的で諦めたような言い方ばかりをしていたので、父は私に話ができなかったみたいで。父が言うには「厳しい状況なのはお前の言う通りだ。だけどこの会社にもまだ可能性はあるんだ。だからおまえを戻したんだ」と。
生駒:可能性というと、経理担当の部長をはじめ優秀な人材が会社に残ってくださったのも大きいですね。
佐田:そうですね、経理部長は日繰り表をこねくり回して、なんとかやっていけるよう作戦を立ててくれました。普通「半分しか支払えません」って言ったら相手はブチキレてもいいと思うんですよ。でもその経理部長がいると、相手もキレるタイミングを失ってしまうというか、しょうがないですねみたいな空気を作るような経理部長だったんですよ。もう一つは、そんな厳しい状況なのですが、当時の幹部の重要な人材は、誰も辞めてないんですよ。確かに「辞めてもしょうがないよね」っていう人は何人か辞めていきましたが、この人はっていう人は辞めてないんですよ。これはリーダーに対する信頼、愛着によるもので、父も祖父も圧倒的なカリスマ性を持っていたからだと思います。
生駒:そこから今度は4代目が先頭に立って手腕を発揮していかれるわけですね?
佐田:父は意外と体が弱くて、現場にズカズカ入り込んでマイクロマネジメントするようなタイプじゃなかったんですよ。それが父のキャラクターだったんですけど。一方で私は当時29歳で若かったこともありますし、現場にガンガン入っていきました。「全部教えてください、見せてください。一緒にお客様の所に同行しますから。お客様はなんて言っているんですか?それは本当ですか?」などと、納得できないことは全部聞いてメモしながら回りましたね。それで集めた情報を全部まとめて会社の状況をレポートにして父に提出したんですよ。そうしたら「すごいな!よくこんなに細かく見てきたな。うん、おまえの言っていることは正しそうだな」って言ってくれて。それがきっかけで工場と営業の現場を私が指導することになったんです。今までのやり方の問題、課題が詳細なレポートを作成することで浮き彫りになったので、ここからはドラスティックに刷新していくわけですね。最初に営業の現場、次に製造の現場と着手していきました。
まず、営業の現場でこれまでのやり方を変えるって言ったら、「とんでもない4代目がやってきた」と。私が生まれる前から勤めてきたような人たちが、幹部を張っているわけですからね。「そいつが何か大学出て帰ってきたと思ったら偉そうなことを言いやがる。自分たちのやり方を否定し始めたぞ」と大反発でした。そりゃ29歳ですから何を言っても「うるさい学卒が!」みたいな。自分の周りには大学卒しかいなかったので「学卒」なんて言葉は言われたこともなかったのですが、調べてみたら、大学卒っていう意味でした。 ポジションが上の上まで行っちゃった方々っていうのは手の抜きどころが分かっているんですよ。だからお客さんとも結構ツーカーでやっているので、何かを変えて今以上のチャレンジはしたくない。なんならできないっていうマインドになっちゃっているんですよね。それを「やんなきゃ駄目でしょう!」みたいな話を私からされるわけです。するとものすごい反発で。
営業部長が5人いたんですけど、3人から「やってられるか!」って辞表を叩き付けられまして。現場に戻って「●●部長から辞表もらっちゃったよ」って報告したら今度は若手たちから「●●部長が辞めたらもうこの会社終わりです!あの方に付いているお客様をみんな連れて抜けられたらどうするんですか!ただでさえ今売り上げが足りなくて困っているのに。若社長に腹を立ててそうなっているんだから謝ってくださいよ」なんて言われて。そう言われたら私も「そうか、言い過ぎちゃったかもしれないな。若いのになんか生意気なこと言っちゃったな」みたいに少し反省しまして。なのでその件を父に相談しに行ったんですね。そうしたら父に「そんな辞表は受け取れ」って言われたんですよ。
生駒:売り上げが足りない状況で部長クラスが辞めてしまうリスクもある中で、そのお父様のご判断はすごいですよね。
佐田:今思うと本当に感謝しかないんですが、「部下は上司のひるんだ顔は絶対に見逃さないから、ひるむな。笑って受け取ってこい」って言われて。実は、辞表を出した部長勢は、私に脅しをかける前に父に相談に行っていたんですよ。その時点で父から「展隆に俺は賭けたんだ。あいつの言う通りにやって駄目だったら仕方ない。俺はもう覚悟はできているから、お前らもあいつの言う通りにやってくれ」って言われてしまい、彼らとしてはもう耐えられないわけですよ。父にそう言われたら最終手段で私に頭を下げさせるしかないということで辞表を持ってきたんですね。
だからあの時に父が私を選んでくれたこと、私を支持してくれたことに感謝しています。その時父は「あいつの持ってきたレポートは正しい。今までお前らのやり方で駄目だったのだから、あいつを言う通りやってみろ。筋通ったこと言っているんだから。あいつの言い方が悪いのは俺が謝るから」って言ってくれたらしいのです。それでも、私の方針に従いたくないと5人の内3人は辞めていきましたね。まだ戻って来て数ヶ月のことです。若手たちには、私が辞表を受理しますって言ったらギョッとされましたよ。確かにその若手たちが言う通り、辞めた人間が結構大口のお客さんを連れてっちゃうんですよ。だから急に仕事入ってこなくなって、「●●さんからの受注が止まりました!若社長どうするんですか!」って現場は大騒ぎで。
もうしょうがないからお客様の所まで話しに行くわけですよ。「仕事が来ないんですけど、どうされましたか?」と。「いや、なんか佐田さん、うちと商売したくないんでしょ?」みたいな。「いやいや、そんなことはありませんよ!誰からそんな話聞いたのですか?」という話になり、結局辞めていった部長が競合の工場とかに私の悪い噂を流しまくっているわけですよ。
生駒:それはひどいですね。

生駒:そこは佐田社長の誠意、誠実っていうところが伝わったのでしょうね。
佐田:確かに、私は結構まっすぐなタイプなので、みんなからも分かりやすい性格だって言われますね、裏表も全然なくて。言ったからにはということで工場に行って工場長と喧嘩してもお客様との約束は守りましたし。それで喧嘩をした工場長から父のところに告げ口が行っても父は私の背中を押してくれましたし、工場側のフォローもしてくれて。中国の工場長は辞めていきましたが宮城の工場長とは喧嘩した結果、逆に私のことを認めてくれて。「おまえ結構面白い奴だな。営業は部長含めみんな俺のこと怖がっているから、ちゃんと話しに来ないんだよ。若いのに頑張るな」って褒めてくれましたね。
生駒:その工場長が今度は中国に行かれるんですよね?
佐田:はい、その方が製造のトップだったんですよ。当時も8割は中国工場、高級品が国内工場で縫っていたんですよ。ただ、その中国の8割の品質が問題になっていたので、その方に中国工場に行ってもらうべきだっていうことを父に伝えました。そうしたら父は「あいつは障害児の子供がいて大変な中うちの会社で働いてくれているだけでもありがたいんだから。家を空けられないから海外なんて無理だろう」って、なんか妙にウェットなことを言うんですよ。私にはロジカルにキチキチ詰めてくる父がですよ。「いや、お父さんさ、うちの会社は今そんなこと言える状況?うちのメイン工場ってどこ?うちの勝負できるところってなんなの?」って言ったら、「北京工場に決まっているだろ!いつも言っているだろ!」って返してくるんですね。「そしたら、何?うちの製造のトップは国内にいるの?お父さんの言っていることおかしいよね?」って今度は私が返したら「う~ん、確かに、そうかもしれないな」と。
それで父と一緒に話しに行ってみたら、即答でしたよ。「いや、そろそろ社長から言われると思っていました。親戚にもちゃんと話をして準備してありますから。もう明日にでも北京に行きますよ。」と言ってくれまして。どうやら中国の工場長が辞めたって聞いたときから自分が行くしかないと思ってくれていたみたいなんですよ。それで、工場長が変わった途端に品質がガラリと良くなって。いかに前の工場長が手を抜いていたかって話なんですがね。大体私は、全うなことを言う人間で、変なことは言わないわけですよ。そういう人間に腹を立てて辞表を叩き付けてくるような人というのは、何かしら負い目があるんですよ。手を抜いているって自覚があったりですとか。「あの資料を出せ、この資料出せ、来月までにこれをやっていきましょう。今のメモしましたからね。分かりました?何月何日何時までにこれですよ」ってやっていくと資料からも内情が分かるじゃないですか。
正直国内の方はそこまで掘り下げませんでしたけど、辞めてった3人の方々も、自分たちが相当手を抜いているって自覚があって、「どうもこいつの言う通りやらされるとすごい面倒くさい大変なことになるぞ。今はお客さんとうまくやりながらぬくぬくやれているのに」っていう人が辞めていくんですよね。だから、そういう人たちには辞めてもらって、若手を引き上げていったら、大体1ヶ月も経つと「あの人いなくなってもらってよかったですね」なんていう話が、結局現場から出てくるんですよ。
生駒:やはりそういうところに人の成長ってありますからね、「働きアリの法則」というか。
佐田:当然、若手は上の仕事までやらない方が楽じゃないですか。そこに甘んじちゃってるんですよね。でも上が退社していなくなった、役職が引き上げられた、給料もちょっと上げてもらったとなると、自分がやんなきゃいけないと。「大変だけど」と言ってやる人は成長しますから。だから営業評価についてもかなりシビアに見るよう改革しましたね。それまでは、とにかく営業成績として着数さえ上げれば、社内の英雄だったんですよ。着数だけ追っていくと、赤字でもいいわけじゃないですか。それをみんなやっちゃっていたんです。だから「予算は売り上げじゃなくて粗利で作ります。赤字で売ったら予算が余計膨らんでいきます。利益を出さなかったら営業じゃないんですよ。未達粗利の何%は給料から引きます」っていうふうにほぼ罰則みたいな評価基準も設けましたね。
生駒:確かにそれは厳しいですが、でもそれぐらいの意識改革をせざるを得なかった状況だったのですね?
佐田:本当にぬくぬくしていましたので。それまでも、お客様に手もみして、またちょっと呑みに行きますかとかやっていればそれなりの仕事はもらえていたんですよ。ただそれだと、そこから次の段階、レベルへってできないじゃないですか。だから先ほども言いましたが、「ちょっと実質値上げになるかもしれませんが」と、こっちの会社の状況の話もした上で、「こういう仕事はぜひ欲しいのですが、逆にこういう仕事は生産性を下げるので、できればこういう仕様は控えていただきたい。この仕様についてはアップチャージとして値上げをさせていただきます。その代わりこちらの加工賃自体は据え置きにしますので。トータルしたら値上げになりますから。こちらを少し減らしていただければうちの生産性は上がるので、そうするとうちも今の状態でも黒字になるのでやっていけるようになりますから」というような交渉をすることで落としどころ見つかるわけですね。
でもこれをやらずになあなあでやっている方が正直楽じゃないですか。だから私はそういったことを「一つひとつきっちりやっていきましょう」とやり方を抜本的に変えていったんです。当然反発も出ましたし、抜けていく人も結構出ましたが、本当にこの会社にとって大事な方々は、誰1人抜けませんでした。このおかげで業績のV字回復を成し遂げることができましたね。
生駒:それで、小売りの方に少しずつ目を向けていかれるわけですか?
佐田:そうですね、ただ、あの時点で小売りを始めた目的は、卸しを伸ばすためです。「メイドインチャイナのフルオーダーなんか欲しがる人間は日本にはいない!」っていうふうにテーラー勢から言われていたんですよ。でも自分が買う側の立場で考えたら分かるわけですよ。同じものが安かったらメイドインチャイナでも買いますよ。青山さんとか青アオキさんで売っている既成のスーツもほとんどがメイドインチャイナなわけです。なのに、なんでフルオーダーだけ、メイドインジャパンじゃないといけないのかと。そんなわけないよなと考えて、何度も話を持ち掛けてみても、そういう先入観を持っているテーラーさんはメイドインチャイナのフルオーダーだけはいらないって言うんですよ。
なので、そういう方々の目を覚まさないと、ということで、自社で小売りをやることにしました。特に若い人向けに、「フルオーダーがこの値段ならどうですか?」と、当時楽天にお店を出したところ、うわーって売れたんですよ。その実績を基に再度テーラーさんの所へ行って「こんなに売れましたよ。この方々の年齢は平均何歳です。お宅のお客様で20代、30代前半の方っていますか?」みたいな。当時のフルオーダーのテーラーのお客様なんて、ほぼ団塊の世代で若い世代はほとんどいませんでしたから。「こんなに若い世代が買うんですよ。なぜだか分かります?そう、値段が安いからですよ!メイドインチャイナかどうかなんて気にしないんですこの世代は」というようにテーラーさんたちに興味を持ってもらいました。「そういう安いゾーンの仕事は佐田さんのところの生地使って、中国工場で製造すれば確かにこのぐらいの値段で売っても十分利益出るよね。」と、ニーズがあること、利益も十分確保できることは理解してもらったのですが、「でもこんな安いのをうちの店に並べたら、うちのお客さんたちはみんな安い方買うようになっちゃうんじゃないかな?」って怖がっていたんですよ。
なので、これについても「いいえ、何件かでテストしましたが、この方々は動かないです。メイドインチャイナのフルオーダースーツはこの世代は買いませんから、あなたの既存のお客様には影響は出ません」と言い切れる背景データも持てたので、これを前面に打ち出していきました。「既存のお客さんの息子さんとか、社長さんの従業員さんの若い層とかが来ますから。だから、こういう低価格帯の商品もあるので、若い方を紹介してもらえませんかっていうのを全てのお客様に電話かけて聞いてみてください。うちのこの商品使って売り上げ伸ばしているお客さんはみんなやっていますよ」と言って、テーラー勢に動いてもらったんですよ。そしたらドッと売れるわけですよ。もうウィンウィンじゃないですか。うちも中国工場が回るようになって利益も出るわけですからね。中国工場の仕事も増え、国内工場では、難しい仕様に対応しつつ、ただしオプションとして実質値上げして。それをお客様が受け入れてくれたことで、国内工場も中国工場も利益が出てというふうになって、V字回復したんですよ。
生駒:まさにフルオーダースーツ業界の規制概念を変えていかれたと。
佐田:私は外部から入った人間なので、既成概念っていうのが分からなかったんですよ。フラットに見て、普通にロジック固めていったら、「なんでメイドインチャイナのフルオーダーは売れないのですか?」っていう素朴な疑問に辿り着くんですよ。それに対して明確の答えもなしに「そういうものなんだ!」みたいなことを言われても、そういうのは私には通らないですから「そういうもんだじゃなくてちゃんとした理由がないと私は納得できませんよ。お客さんに聞きました?」って言うと、「聞いてないけど、買うわけないだろうそんなもの!」みたいな。この辺でロジックが破綻しているじゃないですか。だからそういうテーラーさんに言っても通じないから、じゃあ自分でやってみようということでテストしてみたら、若い人にも売れると。
それで次は、既存のお客様たちが安い方にみんな流れちゃって、売り上げが半分になるみたいなことを恐れているんですけど、これについても、この層は動きませんというデータを示したら、後はやらない方がおかしいですよね。「若い新規のお客様が取れますから、既存のお客様の息子さんとか社員の若い方にはこっちの方が売れますから。かといって既存のお客様のゾーンは安い方には流れませんから、そこはほとんど変わりませんよ」って言ったら良いこと尽くしじゃないですか。それでうちも売り上げが復活していきました。そこでも抜けたお客様はいるんですけど、それを上回って余りあるぐらい多くの仕事を入れてくださいまして、私が戻って半年で黒字にすることができました。8,000万の赤字からトントンまで、次の期は営業利益1億出して、その次の期は1億7,000万出すところまで持っていき、この辺から中国工場を使って、競合工場のお客様を開拓していくってことをしたんですよね。
生駒:その辺のアグレッシブさが素晴らしいですね!
佐田:いや、うちも必死でしたからね。ただ、新規開拓なんてほとんどやったことない営業しかいなかったので。「新規開拓って何ですか?どうやるんですか?」とか言っているわけですよ。「じゃあまずはリストを作って」って言うと「それどこにあるんですかね?」って。「電話帳を持って来てテーラーって検索してください」と。「えっ!?こんなにやるんですか?」「いや、やるんですよ!」というようなスタート地点から、実際に自分でもやってみせながら、徐々に開拓を進めていきました。それでいざ営業してみると「説明しに来てよ。本当にメイドインチャイナの商品なんて売れるの?」みたいに半信半疑でも興味持ってくれる方が出てくるわけですよ。このように新規開拓も順調に進めば、自ずと客数も増えて、着数が増えれば当然原価も下がってくるんですね。そうしたら利益もどんどん出るようになる。内心、「やった!うまくいったぞ、このままいけちゃうんじゃないか」と思ったんですけど、この辺がやはり経営者経験がないので、利益を出しても借金は減らなかったんですよ。
生駒:そこでファンドが登場するわけですね?
佐田:そうですね、もう借金が全然減らなくて、私の一生かけても返しきれないんじゃないかみたいな額なわけですよね。そんな中、債権者と「元本の返済を止めてもらって金利だけ払ってくれさえすれば5年ぐらいはそれでいいですよ」っていう口約束ができていたので、何とか生きていましたけど、これそろそろ元本返済を開始してくれって言われたら、もう無理なわけですよ。それで近い将来、破綻が見えているような諦めムードみたいになってきたときに、銀行の支店長さんから呼び出されて、「そろそろお話する段階だと思うんです。御社のひどいバランスシートを見ると、損益は素晴らしい黒字じゃないですか。でもこの借金は返せないですよね。社長の顔見ればわかりますよ。無理だと思ってらっしゃいますよね?我々も全額回収しようとは思っていません。そこで提案です。今、債権放棄をして、バランスシートを綺麗にして、本当に良い会社にするっていう手法が、企業再生の一般的な方法になってきているんですよ。大企業さんでいうと●●社や▲▲社なんかもみんなやってもらっていますよ。だから御社もそれをやったら本当にいい会社になると思いませんか?例えば当行が借金回収も半額でいいと言ったらどうですか?」って言ってくれたので、「それならやれますよ!」と。
25億を10億くらいにしてくれたらいけるんじゃないかと。この時営業利益7,000万出していますし、減価償却とか入れても2億以上キャッシュを出しているわけですよ。なので、年に1億ずつ返していけば10年で綺麗になっちゃうじゃないか。私が40になったときには無借金じゃないかと。半額以下ぐらいしてくれるんだって支店長から希望をもらいまして。そのとき支店長に言われたのは、「当行としてはもう正直準備していました。あとは他の金融機関の足並みさえ揃えられれば、メイン行がこう言っているので、で通ると思うんです。御社は実際利益出していますから。あとは金融機関の足並みを揃えてくれるために政府が作ってくれた協力機関、中小企業再生支援協議会(※)ってところがあるのですが、ここに足並み揃えてもらって全行が分かりましたと言えば、半額ぐらいの借金棒引きはやれるはずです」って言ってもらってですね。
※「中小企業再生支援協議会」とは、中小企業の再生に向けた取り組みを支援するため、産業活力の再生及び産業活動の革新に関する特別措置法に基づき、都道府県 ごとに設置されている公正中立な公的機関。 事業の収益性はあるが、財務上の問題を抱えている中小企業を対象に、きめ細かい 相談・再生支援を行う。
ただ、今は本当に一般的な手法になっているのですが、当時は都銀が大企業に対してやる手法だったので、地銀さんとかは知らないわけですよ。だから大荒れに荒れて大変でしたね。保証協会からは「債権放棄の実績はありません。まして中小企業で法的再生でもないのに一律での借金棒引きなんて、あり得ません!」って言われて、そこをのんでもらうのに時間かかったんですけど、いろんな方が応援してくれて、説得してくれて「もう特例中の特例ですよ」と、最終的にOKしてくれたということがありました。それで、バランスシートも綺麗になって綺麗な会社になるということになったんですけど、ここに行き着くまでにいろんな専門家さんがいらっしゃって。法務デューデリジェンス(※)、ビジネスデューデリジェンス、そして財務デューデリジェンスを徹底してやられるんです。
※「デューデリジェンス」とは、企業の経営状況や財務状況などを調査すること。「Due(当然の、正当な)」「Diligence(精励、努力)」という意味で、「DD(ディーディー)」と略されることもある。
それで、この財務DDの結果、父が凄まじい粉飾決算を繰り返していたということが明るみに出まして。これ中小企業ってそうなのですよ。生き残るため、金融機関に切られないために、隠すべきものは隠さないとってことをやっちゃうんですよ。ただ、これを父は派手にやりすぎた。それで結果的にメイン行の担当が審査部に変わりまして。審査部っていうのは数字しか見ないです。私たちの話も何も聞いてくれなくて「なんなんですかこれは、粉飾だこれは!当行を馬鹿にするのもいいかげんにしろ!」みたいに言われて何度も泣きそうになりましたよ。そういった経緯を経て、一応私的再生をしましょうと。正直、審査部は、半分放棄でいけると踏んでいたそうなのですが、85%債権放棄しないと、この会社はまともな会社になりませんっていう話になったんでブチキレたんすよ。「半額、まあ6割放棄までは稟議を上げていましたよ。それがなんですか85%放棄って!当行だって貸し倒れ保険かけているので1割ぐらいは返ってきますけど、再生計画10年かけて1割が15%に増えるだけってことでしょ。やってられませんよそんなの!今すぐ潰れてくださいよ!」って言われてしまいまして。
「いやそうではなく、うちが潰れてしまうとテーラーさんたちもみんな困るんですよ」ってそういう方たちにヒアリングして、「佐田さんがいなくなったら本当に困ります」みたいな声をかき集めたレポートを見てもらって、最後は何とか説得できたんですけど。「佐田家だけは許せん、佐田家は腹を切れ」つまり自己破産しろという話が交換条件でのみましたね。この条件について父はもう覚悟できていたので。「従業員の雇用が守られるならば、あとは展隆の人生がぐちゃぐちゃになって終わったりしないならば俺は何でも差し出す」というようなことを金融機関に言ってくれて。ただ最初は「こういうこともあろうかとお父さんはヤバいところからは金借りてないから。まともな金融機関からしか俺は借りてないから夜逃げする必要もないから、親子揃って自己破産するぞ」みたいな話だったんですよ。
なんですけど今度私が個人デューデリジェンスされたら、「東レ」から帰ってきて3年ですから、資産みたいなものは何も持ってないわけですよ。なので「経営者は私に続けさせて、我々が連れてきた経営者にちゃんと引き継ぎをさせたい」っていう話を、そのファンドが言い出してくれて、金融機関団を説得してくれたんですよ。「展隆さんは何にも資産を持ってないので、自己破産させたってお宅らも何のメリットもないでしょ?お父様が全部持っているんだから、お父様にちゃんと自己破産してもらって、出すべきものを出してもらって、経営者としての責任を取ってもらって、息子さんは戻って来て3年バタバタやっていただけの人だから、逆に引き継ぎをちゃんとして綺麗に辞めてもらった方が角も立たないし。息子さんは結構社内でも人気あるみたいだからこの人について辞めていくみたいな人も出ないようにしますから。その代わり自己破産を免れさせてあげましょうよ」という話をファンドが金融機関団を説得してくれたんです。だから私は脛に傷を負わずに離れることができたんですね。

生駒:それから3年間修業というか、外にいたんですよね?それでまた呼び戻される時が来ると。
佐田:そうですね、ただ、家が破産するって、結構大変で。破産によって住み慣れた家から引っ越したら、当時80歳だった祖母が、心筋梗塞で三、四ヶ月で亡くなったんですよ。また父が結構親戚からも金借りまくっていたわけですよ。金融機関に対しては15%残しているんですけど、その親戚から父がかき集めてきた金は佐田家のお金って扱いになっているから、1円も返してもらってないわけですね。親戚も言いたいことはわかるのですが、うちの祖母が亡くなったことを引っ張ってきて、私が殺したと。「展隆くんはおばあちゃん殺しなんだ」みたいなことを、親戚で集まると言われるわけですね。私は祖父と祖母が大好きでね。祖父は先に亡くなっていて、おばあちゃん孝行っていったらそのチャンスももらえなくて、挙句の果てには親戚からそう言われて、私はへこむわけですよ。そういう状況に今度は母親が相当落ち込んでしまって、癌になっちゃって。それから4年の闘病を経て他界してしまいました。だから自己破産がきっかけで私は祖母と母を亡くしているわけですよね。
そんなつらいこともありましたので、それでまさかまた戻ることになるとは思ってもいませんでした。後を託した、「伊藤忠商事株式会社」系列のファンドがリーマン・ショックを遠因として破綻しちゃうんですよ。それで解散になっちゃって、うちの案件が宙に浮いちゃっているから金融機関さんが「どこか引き受けませんか?」って募集したところ、うちの一番大きかった卸先、結構大手の流通さんですが手を挙げてくれて「いいよ、一応オーナーやっても。資金繰りの面倒見るから」と引き取って子会社として支えてくれたんですね。なんですけど、そこへ東日本大震災が来てうちの宮城工場が被災してですね。「そごう」亡き後、うちは全国のテーラーさんたちに支えてもらっていたんですよ。国内工場は宮城県にあるので、東北のテーラーさんたちがうちの主力の卸先だったんです。このテーラーさんたちがあの震災で大量廃業してしまうんですよ。それでまた赤字転落と。
売り上げの3分の1が瞬時に消えてしまって、それを受けてそのオーナーさんも「すまん、もう面倒見切れん」と。100%子会社が倒産したとなると、守れなかった親会社も大丈夫なのかって疑われるのが迷惑だからということで、「貸した金は返さなくていいから、半年存続してほしい」といって縁を切られてしまったんです。当時の専務が株を押し付けられてオーナー社長にさせられて切り離されちゃったんですよ。その方ももう70歳ぐらいの人でしたし、大赤字でどうしていいかわかりませんということで、私に連絡がありまして。その方が私を金融機関と引き合わせてくれると言うのですが、「20億踏み倒した社長なんて、金融機関が戻ってきていいって言うわけないじゃないですか」って言っていたら、どうやらメイン行が変わっているから問題ないらしいと。それでちゃんと話を聞いてみたら、「戻ってきてほしいと我々も思っていますよ。御社の方々、誰にヒアリングしてもあなたの名前が挙がります。そういう方であれば当行としては戻ってきてもらうのもやぶさかではありませんから。ぜひお願いできませんか?」って言うわけです。こんなことってあるのかと驚きましたね。
生駒:それでまた戻ってこられて、内情をご覧になっていかがでしたか?
佐田:また今回もこれまでと似たような状況でしたね。もう簿外の未払い債務みたいなのが大体どの辺にあるかなんてのは分かるわけですよ。そんなにあるんですかみたいな。あとはもう在庫の積み増しですね。利益出しの常套手段ですけど。
生駒:また、戻るときに奥様から猛反発されたとのことですが、そのあたりはどのように説得されたのでしょうか?
佐田:妻とは私がサラリーマンのときに結婚させてもらったので、まさかまた社長に戻るとは妻は当然思っていませんでしたし、父まで「もうやめとけ。今働いているところで給料もらっているんだからさ」と反対されまして。その時私はコンサルにいましたから給料は良かったんですよ。私が戻ろうと思うって言ったら妻が泣きじゃくってですね、「おばあちゃんも死んじゃってお母さんもステージ4でホスピスに行って。私まであんなふうにする気か!」と関西弁で言うんですね。なんですけど、リーマン・ショックと震災がなかったらこんなことはなかったわけですね。それから、既存の従業員さんたちの父や祖父に対する愛着がなかったら、金融機関のヒアリングを受けても、私の名前なんて出ないわけですよ。それは父や祖父に対する愛着なのですよ。これがなかったら、こんなことになってない。もっと言えば、後で知ったのですが、最初のファンドなんて、実はハゲタカファンドだったので、会社をバラバラにする気だったんですよ。「この中国工場とこれを回すシステムは面白いよね。これをどっかの会社に売却しよう」ということを考えていたようで、バラバラにする気だったと思うんですよ。
ところが、その段階に入る前に自身が破綻しちゃったので、結果としてうちの会社は五体満足のまま残っていたんですよ。という諸々の事を考えると、もう奇跡としか思えなくて。ほぼ五体満足で、社名も変わってない。メンバーを見てもほぼ残っていると。それでみんなが私の名前を呼んでいるって。しかもメイン行が変わっていて、そこには迷惑かけてないんですよ。こんなことも奇跡にしか見えなかったんですよね。そこで思ったのは、「これ絶対祖父が裏で糸引いているよな」って。そう思ったら、絶対そうだと思い初めて、もう間違いないなこれはと。それで本のタイトルにもさせてもらったのが祖父の口癖です。「迷ったら茨の道を行け。騙されたと思ってそうしてみろ、その道が正解だから」と訳分からないことを言うわけですよ。小さいときにそれを聞いても「誰が茨の道なんて!」って思うじゃないですか。でも大人になって、ここまですったもんだの経験をしてみると、意外とこれって正しいよねって経験則上わかってきたように思います。
祖父が小学生の頃から、この言葉を私に刷り込み続けたのも、もしかしてこのタイミングで、私に戻るという意思決定を、妻を説得して戻るっていう意思決定をさせるためだったのではないかという気分になったら、もう戻る気しかないわけですよ。それで「この話を断ったら本当に男が廃ると思う。こんなに頼りにされているんだから」と、一生懸命妻を説得して戻ることができたんですよね。
生駒:それで戻って、そこからまたもう一度会社を再生させるのは、本当に茨の道を突き進むということですね。
佐田:前回は製造卸業として、卸の売り上げを伸ばしてテーラーさんを新規開拓して復活させましたけど、今回は、開拓先がなくなっちゃっているくらいテーラーさんたちが弱っちゃっていて。でも震災で売り上げ3分の1消えているわけですよ。だからまずはこの売り上げを取り戻さないとどうにもならないので。それで、どうしたものかと考えたときに小売りという発想に至りまして。
以前、テーラーさん開拓用に楽天に出した小売りのお店。この時点でいくらかは小売りのノウハウも溜まっているじゃないですか。だからこれを活用できないかと。ただ当時は利益を上げる必要はなかったんですよね。なぜならテーラーさんに実績とデータを見せるための店だったので。だからこれをちゃんと黒字化できる店をこれから作っていって、震災で失った売り上げを取り戻したらいいんじゃないかと考えたんですね。卸売りより小売りの方が利益率高いし、うまくやればいけるんじゃないかなと。この戦略でまた企業改革をして売り上げを取り戻すぞと。
生駒:そのとき社内の抵抗勢力的なところはどうだったんですか?
佐田:抵抗勢力は会社の全上級幹部が敵に回りまして、経理部長、営業本部長、国内の工場長、中国の工場長、そして受注物流センターのセンター長。この5人が上級経営幹部だったんですけど、また全員から辞表が出てきました。ただこの5人が同時に辞表を出していたらさすがに無理だったと思います。ただうまい具合に1人ずつ順番に、1ヶ月おきぐらいに出されたので。1ヶ月あったら、下の人を引き上げてその間ずっと張り付いて応援してあげると。実は、現場って辞表を出した部門のトップじゃなくてその下の人が回しているのですよね。
だからこの人が引き上げられて困るのは、社内社外交渉だけなんですよ。私は、4代目の看板背負っていることもありますから、社内社外交渉をやりやすいじゃないですか。だから私がこの人に張り付いてやりやすいように環境を整えてあげると自信持ってくるわけですよ。仕事が面白くなってくるとびっくりするくらい働いてくれるんですね。ということをやったわけです。そうしたらまた震災で失った売り上げも、ちゃんと小売りで取り戻すという戦略が花開きまして。私は最初22億のときに会社に戻りましたけど、新規開拓、中身の入れ替えもしながら、24億の売り上げにしてファンドに渡したんですよ。で3年経って帰って来たら、震災で売り上げがポンと消えて、17億です。ちょうど売り上げの3分の1が消えているので。
それで、ここから回復して、9年連続増収です。店もいっぱい出しましたし、人も一生懸命採用して、知名度、信用度を上げるために、お試し19800円でフルオーダースーツというものを改めて打ち出して。打ち出してみたら「嘘つき!どうせ超劣悪商品なんだろ!」と叩かれ。破れないっていうのを示すためにスーツ着て山登ったりスキーしたり、トップアスリートにもこんなフィットしたスーツが作れますよということをやってですね。何とか思い描いたような、ある程度安定した会社になることができましたっていうのが、ここまでのストーリーです。
生駒:その中で初めて賞与、ボーナスを出せたときはどういうご気分でしたか?
佐田:そうですね、社員たちは皆ボーナスなんてないのが当たり前だと思っていたみたいで。利益とか余裕はなくて、ちょっとだけしか出せなかったのですが喜んでくれましたよ。半月分とかだったかな。それでも拍手喝采でしたので。
生駒:それは額じゃないですよね。やはり会社の姿勢、従業員の皆さんを絶対守っていくのだっていう先代からの血というか、魂というか、そういう現れなのかなと思いますね。
佐田:あのことだけは多分あの世で祖父にも褒めてもらえると、そう信じています。最近ずっと一緒にやってきた父が他界してしまいましたが、あとはあっちで私のことを見守ってもらって、私もまだその年に行くまでは30年ぐらいありますから、もう一仕事はできると思っているので。もっと良い会社にして、改めて向こうで再会したときには、祖父にも父にも、「展隆よくやったな!俺もお前がここまでやるとは思わなかったぞ!」と言ってもらえるぐらいのサプライズ的な実績を作ってから会いに行こうかなと思っています。

佐田:2度目にこの会社に戻ってきて、震災で失った売り上げを小売りで取り戻す、ちゃんと利益を出す小売りをやるという方針を打ち出したこと。幹部全員から辞表を受け取ったりもしました。「店を出すノウハウなんかどこにもないのに、うまくいくわけない!」って言われても新宿にお店を出すって方針を曲げませんでした。今まで100%製造卸だったので、テーラーさんたちがお客様なわけですよ。このテーラーさんたちからすると、うちが直接小売りをやるということは、自分たちの土俵に仕入れ先が上がり込んできた。つまテーラーが敵という見方をされるんですね。それが営業本部長からすれば迷惑だと。「これだけうちを支えてきてくださったテーラーさんたちを敵に回して、あなたは馬鹿ですか!」ぐらいのことを言われたんですよね。
でも他に、震災で失った売り上げを取り戻す方法なんか思いつかなかったので、やるしかないじゃないですか。で、その最初に出店する店をどこに出店するかということを考えたときに、やっぱりサラリーマンがいつもいっぱいいる所っていったら新宿でしょう。乗降客数世界一の駅ですよ。だから新宿に出店したんです。この店が滑っていたら今はないですね。それまでの店はテーラーさんの注目が集まるような店を作ればよかったので、立地の悪いところで売り上げを上げるということが大事だったんですよ。でも今度は黒字を出すためにはどんな店が良いのかっていうのを考えなければなりません。ノウハウとか経験がほぼないので、本も読み漁って自分でも色々考えて、小売りの現場に立ってるメンバーからもいろいろ話を聞いて、なんなら卸先さんからもいろんなヒントをもらって。こういう単価設定で、こういう店を、こういう立地にということで出したのが、新宿の靖国通り沿いのビルの4階です。この出店が成功したのがターニングポイントだと思います。
生駒:でもその決断もすごいですよね。いわゆるオーダースーツだから別に路面店でなくて空中店舗でもいけるということですよね?
佐田:洋服の青山さんが若い人向けにしっかり売り上げを上げている店のそばだったら、市場がありますから。その内の一部の人に来てもらっただけでもうちの店は繁盛ですよ。だから洋服の青山さんの近くに出そう。これについても営業本部長からはそんな卑怯なこととか言われたんですけど、卑怯も何もないじゃないですか。そこに市場がある証拠でしょうと。そういうところもたまたまカチッとロジックがはまって。あとはお金がない中での出店だったので、オープンセールの売り上げから、敷金を払う。また内装費もオープンセールの売り上げから、さらに広告代理店への広告宣伝費もオープンセールの売り上げから払いますっていう組み立てにしたんですよ。
そうしたら経理部長が「あなたは気が狂っている!危ない橋じゃなくて橋がないところをあなたは行こうとしている!」とか言われて、どんな綱渡りだみたいな。これはいけるじゃなくて、もうこれしかないと思っていたんですよ。もうこれで駄目だったらしょうがないっていう思いですよね。本当にだから、桶狭間だったと思っています。結果的にうまくいって想定試算の倍売り上げが上がりましたので、資金、内装費、広告宣伝費も払うことができ、なんなら次の出店のちょっとした原資ぐらいまで稼いでくれたので、やはりこの新宿店のオープンが大きな転機だったと思っています。
生駒:なるほど。いや今のお話を伺って感じたことは、おじい様によって導かれたのかもしれませんね?
佐田:いやそれはあると思っていますよ。なんかこの勝負外したら終わるみたいなときって、意外と私は外さないんですよ。何でもないところではミスしますけど、ここで外したら死ぬみたいな山ではノーミスでいけるんですよ。これってどっかでじいちゃんが見てくれていてと。だからこのターニングポイントも何かの啓示だった気がするんですよ。
生駒:今更ですけれど、ご自身の口から改めて聞かせていただきたいのですが、座右の銘はこの言葉っていうとやはり?
佐田:はい、そうですね。「迷ったら茨の道を行け」という言葉ですね。ちょっと違う言い方で、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とかですね。こういう言葉を戦争帰りの祖父は私に残してくれたので、もうこの方向で私は生きていきたいというふうに思っていますね。そうしないと祖父や父に褒めてもらえないですから。
生駒:なるほど、本当に佐田家で代々培われてきた精神力、体力は本当に素晴らしいと感じます。最後に、これからのオーダースーツSADA様の野望、目標的なことをお伺いできますでしょうか?
佐田:そうですね、まだ年商規模も去年の期末決算で35億、今年でやっと多分43億ぐらいですかね。なんですけどまだちょっと小さいわけですよ。せめて100億企業ぐらいまではできるだけ早く、この先4年5年ぐらいで到達したいですね。そのぐらいになって立派な企業だと認識されれば、もっと世の中に発信力を持てるようになると思うので。その発信力を使って私は日本のスーツ文化を再構築したいと考えています。

佐田:今はなんか、「スーツって何のために着るものでしたっけ?」っていうくらい、日本人は分からなくなっちゃっていると思うんですよ。だからなんかちょっと窮屈にも思うし、一方でダボダボにかっこ悪く着ている人もいて、「何であえてあんなもの着なきゃいけないの?」みたいな空気があるのが私には我慢ならなくてですね。ビジネススーツって元々は世界共通語での、そしてビジネスの場では、最上級おもてなしアイテムなんですよ。会う相手に「自分と会う時間を作ってくださってありがとうございます」というこの感謝と、そして「あなたを大切に思っているんです」という相手に対する敬意ですよね。この感謝と敬意を相手に伝えるための最上級のアイテムがビジネススーツなんですよ。このことを日本人は忘れてしまっているように思います。
私はこのことを改めて多くの日本人に思い出してもらいたい。日本人は元々おもてなしの心を世界一持っていると思うのですよ。だから、このおもてなし民族の日本人がその心を持って世界共通語の、この最上級のおもてなしアイテムをちゃんと着るようになったら、多分世界一かっこいいスーツ姿になると、私は思っています。そういう将来、そういう未来、そういう日本人を作っていきたいですね。そんな思いも込めてフルオーダースーツを着てあちこち行ったりして、別に窮屈じゃないよ。結構爽やかに見えませんかと広めているんですね。このポスターにあるトップアスリートもフルオーダースーツを着ることでより立派なジェントルマンに見えるでしょう。Jリーガーなんて片太ももで65センチとかあるわけですよ。本当偏った体型ですよ。でもスラッと見えませんか?ちゃんとご本人のニーズに合わせて、求める着心地と見栄えを実現できますから。ちゃんとフルオーダースーツを着ればこんなにかっこよく見えるんですよ。こういう格好で日本のビジネスパーソンは、大事な方に会いに行くのだと。これが日本人だというふうにしたくないですか?世界一のおもてなし民族なのですから、本来の日本人は。
生駒:素晴らしい。この記事をご覧になったあなたも、この機会にもう一度スーツを見直していただいて、ご自身にフィットする着こなしをしていただき、それがお相手へのおもてなしだということを感じていただきたいですね。そしてぜひオーダースーツSADAさんのところで、1着、2着、3着とお作りいただきたいと存じます。ところで、1着目はおいくらでしたっけ?
佐田:1着目はやはりハードルが高いと思っていますので、まず1着目はお試し19,800円から手に取っていただけます。そんなお値段からフルオーダースーツをお仕立てできますのでぜひお越しいただければ嬉しいですね。
生駒:ありがとうございます。ということで今日は私どもの企画「ターニングポイント 社長の流儀」復活の狼煙として、株式会社オーダースーツSADA 代表取締役社長 佐田展隆様にお話を伺いました。この記事をご覧になった皆様、オーダースーツSADAをみんなで応援していきましょう!今日は本当にどうもありがとうございました!
佐田:こちらこそ、ありがとうございました!
また、倫理法人会的に申しますと「本を忘れず!」つまり、「おじいさんに顔向けができない!」との想いで、邁進してらっしゃるそのお姿は、おじい様だけでなく佐田家のご先祖様の皆さんも必ずや応援されている~と思います。
この度の「ターニングポイント」に最適なこの度の企画、いかがでしたでしょうか? これからも、多く経営者の皆様の宇都曲折の人生やその時の「ターニングポイント」を皆々にお届けしていきたい~と考えております。
どうぞ、ご期待くださいませ~!!
最後に佐田社長様、この度の突然の依頼をご快諾いただけましたこと多大に感謝申し上げます! 今後の事業のご発展を祈念するとともに、更なるご活躍されますことを期待致します。 ありがとうございます。